関東
餃子 宇都宮
今ではすっかり「餃子の街」として定着した栃木県宇都宮市。宇都宮餃子の歴史は、戦争中、北京で覚えた餃子の味が忘れられずに故郷・宇都宮に戻って開業した一軒の餃子屋さんに始まると言われます。宇都宮に駐屯した第十四師団の師団員たちが、戦地で覚えた餃子の味がやはり忘れられず、このお店にどっと押しかけるようになりました。寒暖の激しい土地柄ゆえスタミナ食が求められたこと、材料となる小麦粉やにらなどの野菜が多く収穫されたことも、宇都宮に餃子が根づいていった要因と言えるでしょう。
平成3年に、なにか街おこしになるネタがないものかと資料をひっくり返していた若い市の職員が、宇都宮が餃子消費量日本一だったことを突き止めます。翌年、「宇都宮餃子会」が発足し、宇都宮餃子のPRに努めます。それから後はトントン拍子で、テレビで紹介された次の日に県外からの客がずらーっと列をなす盛況ぶり。そうして今日も、宇都宮の人気餃子店には長い人の行列ができています。
佐野ラーメン 佐野
佐野市は、「出流原(いずるはら)弁天池湧水」が日本名水百選にも数えられているとおり、清らかな水系に恵まれています。また、良質な小麦粉がとれたため、美味しいラーメンづくりのための好条件がそろっており、大正の初めごろにはすでに現在の「佐野ラーメン」の原型となるラーメンが食べられたと言います。
その特徴は、何と言っても、青竹打ちのちぢれ麺にあります。中国広東省出身の職人から伝えられたというその技術は、長い青竹に片足をかけながらリズムよく生地をのばしていくもの。この製法により、生地に多くの水分を封じ込めることができ、生地の中には無数の気泡ができます。このため、独特の舌ざわりとコシの強さが生まれます。澄んだスープは、鶏がらなどがベースのしょうゆ味。あっさりとしていて飽きがこず、食感豊かな麺とよくマッチします。
耳うどん 佐野
「耳うどん」とは、なんとも奇抜なネーミングのうどんですが、その正体は、小麦粉生地を薄くのばして長方形に切り、指でひねって耳の形に成形したうどんのこと。栃木県葛生町を発祥とする麺料理で、「佐野ラーメン」で有名な佐野市の名物となっています。麺線状ではないため、うどんというよりは、ワンタンのような見た目です。なぜ「耳」なのかというと、この「耳」は、人間の耳ではなく、鬼の耳に見立てたもので、正月三が日にこれを食べれば、その1年間を無病息災で過ごせるという言い伝えなのだそうです。また、耳を食べることで悪口が聞こえなくなり、ご近所と円満にいくという説もあるとか。しょうゆ仕立ての汁には、鶏肉や卵、たっぷりの野菜を入れることが多いようです。お餅の代わりに耳うどんが入った雑煮のようで、ハレの日の食事にふさわしい郷土料理と言えるでしょう。
太田焼きそば 太田
群馬県太田市の「太田焼きそば」は、「日本三大焼きそば」の一つ。太田市は戦後、自動車産業などの工業都市として発展しましたが、そのことが「太田焼きそば」の発祥と関係していると言います。全国から出稼ぎに出てきた従業員のための、安くて美味しい手軽な食事が焼きそばだったとか。東北秋田の出身者によって「横手焼きそば」が伝えられたという説もあるそうです。
「太田焼きそば」は、麺は太めのもっちり麺、具材はシンプルにキャベツのみというお店が多いようです。また、まるでいかすみのように真っ黒いソースで、インパクト十分な焼きそばを提供している人気店もあります。
平成14年には、太田市観光協会が中心となって「上州太田焼そばのれん会」が発足し、焼きそばマップを発行しているので、マップ片手に食べ歩きを楽しんでみてはいかがでしょうか。
おっきりこみ 群馬
「おきりこみ(お切り込み)」「にぼと(煮ぼうとう)」とも呼ばれる「おっきりこみ」は、群馬県や埼玉県北部(特に秩父地方)の郷土料理です。「かかあ天下とからっ風」が有名な上州。働き者のお母さんたちが農作業を終えた後に、畑の野菜と、この地で採れた良質な小麦粉で作った太い麺を、いろりの大鍋の中に切っては入れ、切っては入れていったのが、その始まりと言われます。
山梨の「ほうとう」と同様、耳たぶよりも固いくらいにこねた生地をいったんねかせ、うどんよりも幅広に切った麺を、野菜とともに鍋の中に直接入れて煮込んでいきます。生地をこねるときに塩を加えないのは、すいとんやほうとうと同じ。このためグルテンの形成がゆるやかになり、うどんよりももちっとした食感に。また、麺には野菜の汁が染み込み、汁のほうにはとろみがついて、冬にはもってこいのあつあつの鍋物になります。
ほうとうとの違いは味付け。ほうとうがみそ仕立てメインなのに対し、おっきりこみはみそ味のほか、しょうゆ味に仕立てることも多いようです。また、大根やにんじん、さといも、ごぼう、ねぎなど多種多様な野菜を入れるのは同じですが、ほうとうのように、かぼちゃやあずきを入れることはあまりないようです。
「けんちんうどん」も見た目は似たような感じですが、麺を別にゆでるけんちんうどんに対し、おっきりこみは生のまま汁で煮込みます。
いがまんじゅう 埼玉
「いがまんじゅう」という、あまり聞きなれないまんじゅうは、埼玉県北部ではお祝い事には欠かせないものとして、かつては家庭でもよく作られていました。裏作で小麦を栽培してきたこの地域では、「加須うどん」のように小麦食がよく食べられますが、この「いがまんじゅう」にも小麦粉が使われています。
「いがまんじゅう」は、あんこを餅米で包んだ「おはぎ」に似たもののように見えますが、実は餅米の中には、小麦粉や砂糖を練った生地で作ったまんじゅうが入っています。あんこ入りのまんじゅうを赤飯で包んで蒸し上げて作ります。素朴な味わいのこの郷土菓子は、一説には、お祝いの時に赤飯とまんじゅうの両方をこしらえるのが大変で、思い切って一緒にしてみた嫁の知恵だとか。その名は、栗の「いが」に似ているところからつけられたんだそうです。
愛知にも同じ名前のまんじゅうがありますが、こちらはあんこを包んだ米粉のまんじゅうに、赤や緑、黄色に色づけされたカラフルな餅米をのせて蒸したもの(皮自体を色づけしたものもあります)。桃の節句によく食べられるお菓子なのだそうです。
加須うどん 加須
埼玉県加須(かぞ)市周辺では、利根川の豊かな水系の恵みにより、米の裏作として大麦や小麦が生産されました。米は年貢として取り立てられたため、農民の主食はもっぱら大麦の麦飯。たまに食べることができるうどんが、たいへんなごちそうであったため、この地にうどんの食文化が築かれたと言われます。およそ200年前(江戸時代半ば)にはすでに手打ちうどんの店があったという記録も残っており、古い歴史があることを物語っています。
冠婚葬祭や祭りなど、特別の日には各家庭で必ずうどんを打ったそうで、そんなことからも「加須うどん」の手打ちの技術は向上してきました。その特徴は手打ちであることで、「足踏み」や「ねかせ」といった作業に通常のうどん作りよりも多くの時間をかけることで、独特のコシの強さを、また、水分をやや多めにすることでつるりとしたのどごしを生みます。
行田フライ 行田
埼玉県行田市のご当地メニュー「行田フライ」は、市民には「フライ」と呼ばれ、愛されています。エビフライやアジフライのような揚げ物ではなく、写真のように「お好み焼き」に近いものです。足袋産業がさかんだった明治~昭和の女工さんたちに人気があったのだそうで、フライパンで焼いたから「フライ焼き」、それが単に「フライ」になったという説があるようです。
水で溶いた小麦粉を鉄板の上に薄くのばし、ねぎや豚肉、卵などの具をのせ、ひっくり返してまた焼いたら、ソースかしょうゆで味付けしてできあがり。まさにお好み焼きのようですが、キャベツは入らないことが多く、薄くてもちもちとした生地は、クレープや、韓国料理のチヂミにも似ています。行田市の商工観光課では「フライマップ」を配布し、フライを食べられるお店を紹介しています。
ちなみに行田では、「ゼリーフライ」という食べ物も人気です。こちらは、おからにじゃがいもや野菜のみじん切りを混ぜたものを、衣を付けずに揚げた後、ソースにくぐらせたもの。小判型をしているから「銭フライ」、それが変化して「ゼリーフライ」という名前になったとか。いずれもおやつ感覚で気軽に食べられる、庶民の味方です。
たらし焼き 秩父
埼玉県の秩父地方を中心に、農作業の合間や小腹がすいたとき、また、お茶うけとしてよく食べられた小麦粉料理が「たらし焼き」。今のようにお菓子がなかった時代に、おやつの定番としてよく食べられたそうです。
作り方はいたって簡単で、小麦粉にみそ、細かく刻んだねぎや青じそを加えて、水で溶いたら鉄板にたらし、こんがりと両面を焼くだけ。生地をたらして焼くから「たらし焼き」と呼ばれるようになったようです。
今でも根強い人気があるようで、しょうゆや砂糖、ごまなどで味付けを変えてみたり、桜えびや、ふきのとうなどの旬の野菜を混ぜ込んだりして、各家庭の味として引き継がれています。
たい焼き 東京
「たい焼き」は、東京・麻布のお店が1909年に最初に売り出したというのが定説。ベースとなったのは「今川焼き」で、最初は亀の形を作りましたがヒットせず、後に“おめでタイ”からと鯛の形にしたところ、これが飛ぶように売れ始めたのだと言います。
当初は“一匹”ずつしか焼けない金型でしたが、後になって一度に複数焼ける金型が登場。たい焼きファンの間では、前者を「天然物」、後者を「養殖物」と呼んでいます。焼き方や火の通り方が異なるため、味も違うのだそうです。
定番は、尾の部分までギッシリ詰まったあずきあんに、カリッと香ばしい小麦粉で作った皮。今では、中身は白あん、桜あん、抹茶あん、カスタードクリーム、チョコレートクリームなど多種多様。タピオカ粉などを混ぜて、もちもち食感にした白い皮のたい焼きなども誕生しました。
もんじゃ焼き 東京
水で溶いた小麦粉にウスターソースで味付けをし、キャベツや揚げ玉、切りいか、桜えびなどを混ぜ込んで鉄板に流し出すと、ジューッという音が立ち、香ばしいにおいが店内にただよいます。キャベツの土手を作って、残しておいた汁を流し込み、ぶくぶく泡立ってきたら全体を一気に混ぜ合わせましょう。「ハガシ」と呼ばれる小さなコテで生地を押さえつけます。ハガシに張り付いてきたもんじゃには、美味しそうなおこげが…。
東京名物「もんじゃ焼き」は明治時代、東京下町の駄菓子屋で、七輪の上に鉄板をのせ、水溶きの小麦粉で「いろはにほへと」のような文字を、子どもたちに教える目的で書きながら焼いた「文字焼き(もじやき)」が進化したというのが定説になっています。もんじゃ焼きが大人向けの食べ物になったのは1960年前後。80年代には、明太子、納豆、カレー、スナック菓子など、具の種類が一気に増え始め、マスコミの取材とあいまって東京名物の地位を確立していきます。中でも月島や浅草が有名で、特に月島には、狭い区域に多くのもんじゃ屋さんがひしめきあっています。
鍋焼きうどん 東京
ぐつぐつと煮え立つ土鍋に、えびの天ぷら、ねぎ、しいたけ、かまぼこ、卵焼きや月見玉子、お麩といった、たくさんの具。芯から体をあたためてくれる「鍋焼きうどん」は、寒い冬に食べたくなる定番料理の一つです。
鍋焼きうどんの発祥ははっきりと分かっていませんが、大阪を舞台にした幕末の芝居『粋菩提禅悟野晒(すいぼだいさとりののざらし)』に、「鍋焼きうどん」という言葉がすでに登場していると言います。明治11年ごろの東京・深川で大流行したという説もあり、明治13年12月の新聞には、鍋焼きうどん屋が東京で大流行中との記事が残されているとのこと。夜鷹そば(夜そば売り)に変わって現れたとのことなので、寒い街頭で食べられることが多かったのでしょう。
一般に、鍋焼きうどんと言えば一人用の土鍋で食べることが多いようですが、愛媛県松山市の鍋焼きうどんは、一人用のアルミの鍋で提供されます。麺は柔らかめ、おつゆはやや甘めに味付けされています。また、松山の鍋焼きうどんは、えび天ではなく、味付けした牛肉などを具にしているお店が多いようです。
シュウマイ 横浜
「シュウマイ」は、小麦粉を主体とした四角い薄皮に、豚のひき肉や野菜、好みによってえび、かになどを加えた餡を包み、せいろで蒸し上げて作ります。
「シュウマイ」の本場はもちろん中国。北京など北部では「焼売」、上海など南部では「焼麦」と表記します。シュウマイが日本に伝えられたのは定かではありません。室町時代以降という説もあるようですが、一般に食べられるようになったのはずっと時代をくだって、長崎や横浜の中華街で提供されるようになってからだと思われます。全国にその名が知られるようになったのはもっと後で、横浜の有名店が1950年、横浜駅のホームに中国風の赤いドレスを着た女性を登場させ、シュウマイを売り出したことに始まります。タスキをかけ、シュウマイの入ったカゴを下げた女性たちの姿は、連日のようにメディアを賑わせました。やがて、このシュウマイを売る女性がヒロインとなる小説が新聞に連載され(獅子文六「やっさもっさ」)、後に映画化されたことでシュウマイは「横浜名物」としての地位を一気に確立することになったようです。
佐島のへらへら団子 横須賀
2007年12月、農林水産省が発表した「農山漁村の郷土料理百選」に選ばれ、マスコミなどに注目されたのが、神奈川県横須賀市の「へらへら団子」。横須賀市佐島地区に江戸時代より伝わる伝統的な料理です。毎年7月に行われる佐島の船祭りのときに、市指定重要無形民族文化財の「佐島御船歌(さじまおふなうた)」、地域特産の真鯛とともに奉納されます。今でも、佐島の船祭りのときには家庭で作られ、豊漁と無病息災を祈願するそうです。なお、へらへら団子は、同じ神奈川県の座間市でも、農家のおやつとして昔から食べられていたようです。
へらへら団子とは、小麦粉と白玉粉の生地を手の平で押しつぶして、平たい団子状にしてゆで、こしあんをからめたもの。その薄く平べったい形状から「へらへら団子」と呼ばれるようになったようです。あんこのほか、しょうゆと砂糖でみたらし団子風にしたり、大根おろしをからめて食べることもあるそうで、似たようなお菓子としては、伊豆地方の「へらへら餅」(ゴマ)や、大分の「やせうま」(きな粉)などがあります。
「ご当地粉料理」は、『小麦粉料理探求事典』(岡田哲 編/東京堂出版)、『日本の味探求事典』(同)などの書籍、官公庁や地域情報などの各種ホームページ、地域住民の方への聞きこみ、弊社資料などによりまとめました。