日清製粉グループ

先見性 A Visionary

episode 1 館林製粉創業、および欧米視察・海外技術の導入

実家の正田醤油の事業を手伝う中で、
母校高等商業学校(現一橋大学)の恩師土子金四郎氏を館林に招き製粉業の将来性を聞き、機械製粉業を決意し館林製粉を興す。
大正2年(1913年)、製粉事業で遥かに進んでいる欧米の実体を調査するため、約半年の欧米視察を実行。この視察で得た収穫から、加工貿易のための臨海大型工場建設の構想を得る。

欧米視察ルート(1913年)

「この第一回の熱心な欧米視察旅行の結果が、どれほど役に立ったか分からないくらいです。また更に一段と合理的に自分の仕事を考えるようになったか計り知れないものがあると存じます。いわばこの旅行で得た収穫が、以来40年近く、私の製粉事業経営の根幹となったものであります。この鶴見工場の建設もこの時の一つのあらわれともうしてもよいと存じます。」

(創業50周年式典時挨拶より抜粋/1950年)

episode 3 優秀な人材の採用

人の採用、育成について貞一郎は人一倍心を用いた。貞一郎は、学校卒業生をすぐに自ら面接して、採否を決定した。
また、貞一郎は広く人材を活用するためには学閥を作ってはいけないと言った。

「頭が切れる、腕が立つということも必要であるが、まず何よりも安心して任せられる人になれ」 「役に立つ人になることも大切だが、まず第一に 信頼できるひとになれ」 「仕事の最も大切なことは協力ということだ」

建設中の鶴見工場(1925年) 清水建設(株)提供

episode 2 臨海工場の建設

大正15年(1926年)に稼働した鶴見工場は、
貞一郎が「清水の舞台から飛び降りる」ほどの決断をもって建設した。

ドイツ人技師を招き、当時の規模としては常識を超える規模の工場であった。原料小麦搬送の1万トン級本船着岸、小麦吸上装置、ドイツ式製粉機による生産ライン、大型サイロを有し、輸出を主体とした、それまでの国内製粉業界では考えられない壮大なスケールであったが、将来の事業発展のために必要との信念を貫き、周囲の反対を押し切り、社運をかけて実行した。

建設中の鶴見工場(1925年) 清水建設(株)提供

鶴見工場の規模

  • 敷地:1 万6000 坪
  • 生産能力:8000 バーレル(日清製粉全体2 万バーレルの内40%)
  • 投資額:800 万円(当時の日清製粉資本金1200 万円)
  • 固定資産額は、鶴見工場を除く14 工場の固定資産800 万円と同額。

名古屋工場の規模(参考)

  • 稼働:大正3年(1914年)
  • 敷地:4000坪
  • 生産能力:大正13年(1924年)増設後1700バーレル