日清製粉グループ

決断力と実行力

episode 1

旧日清製粉との合併
1907年

貞一郎は社内の反対を押し切って、社名を館林製粉から、合併される会社名の日清製粉に決めた。

企業の買収において、買収後の社名は、通常買収するサイドの名前か、まったく新しい名前を検討するが、買収される会社の名前を採用した事実は、極めて稀なことであり、館林製粉内部に強い反対もあったが、「日清製粉」の名称に普遍性があると考え、将来の事業発展、全国展開等を視野に、日清製粉の社名を採用した。このことは貞一郎の決断力「凄味」を表している。

旧 日清製粉横浜工場(1907年)

episode 2

最新鋭工場の鶴見工場大火災
1931年5月22日

貞一郎が精魂込め、社運をかけて建設を実行し、稼働した基幹工場である鶴見工場が、稼働後僅か5年で火災にあった。
その日急報を受けた貞一郎は直ちに現場に駆けつけ、修羅場の真ん中で消火の指揮を執り、深夜負傷者を見舞い、徹夜しながら復興計画を立てる。翌日全工場長を招集、増産を指示するなどし、危機を乗り越えた。

鶴見工場は、その後、当社グループが幾度も出会う数々の苦難を支え、牽引する役割を担った。当社グループにとっていかに鶴見工場の存在が大きかったかがわかる。

『東京朝日新聞』1931年5月23日夕刊
新聞博物館提供

完成時の鶴見工場(1926年)

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