趣味、こだわり、男の料理

Column男の探求コラム

ニッポンの名店紀行 雪深き山奥に存在する、光と闇を表す幻の蕎麦とは?

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御嶽山の麓を走り、開田高原への道程で幻の蕎麦の妙技を味わう
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約70mのアプローチを歩いていると、徐々に自然の空気に心がほぐれ、蕎麦への期待感が高まる。

 江戸時代、飛騨街道に通じる中山道の中間地点にあることから「福島関所」が置かれ、要所として栄えた長野県木曽町。雄大にそびえる御嶽山を西に望みながら、開田高原へと続く国道361号線を車で走っていると"幻の蕎麦"の看板が現れる。
 車を降りると、店の前にはモダンなペンションを思わせる板橋のアプローチ。渓流のせせらぎを聴きながら、雪化粧で覆われた森の中に歩みを進めると心が安らいでくる。およそ蕎麦屋とは思えない建物は店内に入っても続く。入口には木工のクラフトが並んだギャラリー、客席は木組みを残した天高の開放感溢れる空間が広がり、川沿いの大きな窓からは豊かな外光が差し込んでいる。外に広がる一面の銀世界に見とれていると、「あそこの巣箱にヤマガラとシジュウカラが子育てに来るんですよ」と店主の高田典和氏が教えてくれた。

 すぐに供された蕎麦茶と蕎麦かりんとうをいただきながら、少し話を伺った。
 東京で商社に勤めていた高田氏は、余生を過ごす家として40代後半にこの地に建物を建てた。時を同じくして同僚の死を目の当たりにし「一度しかない人生。悔いを残さない道を歩みたい」と突然退社し、一念発起。蕎麦打ちの嗜みがあったかと思いきや「私も妻も、蕎麦が大嫌いでした。だからこそ、自分たちが本当に美味しいと思える蕎麦を追い求め、名高い長野で勝負したかったんです」と高田氏。

 まず、畑を借りて玄蕎麦の種を撒くところから始めた。灯油も買えないほど生活を切り詰め、誰にも教わらず脇目も振らず、試行錯誤を繰り返すこと3年。理想とする蕎麦が完成した。
 高田氏が辿り着いたのは「限りなく何も足さない、何も引かない蕎麦」。だからこの店には小麦粉が一切ない。所謂ぼそぼそっとした十割蕎麦を想像するが、まず定番だという「極粗挽き寒ざらし熟成蕎麦」をいただいて驚いた。立ち込める蕎麦本来の香り、しっかりとしたコシがあり噛むほどに野趣あふれる風味、そして滑るような喉越し。未体験の蕎麦に手繰る手がとまらなくなる。
 この爽快な喉越しの秘密は、水にあるという。使用するのは木曽の水源水だが、極粗挽き蕎麦の僅かな粘りを100パーセント引き出せるよう低分子構造に変え、浸透率を高くしたもの。そして、自家栽培するある植物の葉脈を約0.1パーセント混ぜ、湯ごねはせず1時間以上こねた後、熟成にかける。
 蕎麦と言えば古くより「挽きたて、打ちたて、茹でたて」の三たてが良しとされているが、高田氏の蕎麦打ちは、その概念を根底から覆す。「肉もワインも熟成させることで旨味が出ます。それは蕎麦も同じ。なので麺の状態にした後、急速冷凍をかけ、±0℃で真空氷温熟成をかけています」。
 専用の熟成庫で3〜4日、旨味とコシを最大限に引き出してから仕立てる。熟成には、蕎麦打ちの水とは別に分子構造を変え、雑菌の活性を抑える抗菌作用のある水を使用するという。「蕎麦は一粒の実と一滴の水で一本の麺に仕立てるもの。その中の半分近くを占める水を大切にしないと美味しい蕎麦は打てない。蕎麦打ちは綺麗な水があるところですべきなんです」

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朴訥ながら凛とした佇まいの「極粗挽き寒ざらし熟成蕎麦(1,296円)」

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店で使用する粉は5種類。玄蕎麦は八ヶ岳山麓と木曽谷の信濃一号を使用。

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氷水では〆ず、食感と風味を大切にする。

挽かずの蕎麦に込めた原点回帰の想い
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左)闇夜の漆黒と白む夜明けを表現した、2色の「夜明け蕎麦(1,620 円)」は1日限定10食前後。右)要予約の「野点蕎麦(2,160円)」は3種類の塩で味わう。

 続いていただいたのは「夜明け蕎麦」。こちらは木曽の夜明けと言われた伊那と木曽を結ぶ権兵衛トンネルの開通を記念して創ったという。 「玄蕎麦の黒い穀は、人の手にかかると捨てられてしまいます。同じ玄蕎麦として生を受け、中の実を守ってきたのに。それを活かしてあげたくて」微粉末にして蕎麦粉と混ぜ、更科粉で打った白い蕎麦と表裏一体で紡いだ。そのコントラストの美しさもさることながら、田舎蕎麦の荒々しさと洗練された更科蕎麦が同時に味わえる体験は、ここにしかない。
そして、『時香忘』の極北と言えるのが「野点(のだて)蕎麦」だろう。こちらは蕎麦を挽かず、実のまま仕立てた一品だ。 瑞々しい蕎麦には抜き身が散りばめられ、何もつけずにそのままいただくと力強い蕎麦の風味と大地の香りまでが口中に広がり、プチプチという食感も楽しく、実に滑らかな喉越し。喉を通る時、蕎麦の実が感じられ"在りのままの蕎麦"を実感できる仕上がりだ。「蕎麦の香り、風味を余すことなく表現するには、挽かずにそのまま味わえばいい。その考えを実践しただけです」
 訥々と語る高田氏が打つ蕎麦の根底に流れるのは「原点回帰」という考えだ。「蕎麦の原点は粋な江戸前蕎麦ではありません。米も小麦粉も満足に手に入らない中山間地域で、おばあちゃんがあかぎれした手で小さな石臼を使って作った素朴な料理。黒い殻が混じり、土のえぐみもある不揃いの蕎麦です。そんな蕎麦を私なりの解釈で追い求めています」
その想いを凝縮した蕎麦の味、そして扉が閉まっても頭を深々と下げていた高田氏の佇まいを思い返しながら、板橋を戻る。夜露をまとい始めた森の中で、冷気を感じさせないほどの余韻に浸りながら、幻想的な蕎麦喰い物語は幕を閉じた。

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つなぎに使用する植物の葉脈は1週間かけて取り出すという。

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店内は暖炉の優しい温かみに包まれている。

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「お客様にお代をいただくことで、ご飯が食べられる。その感謝の気持ちは忘れたことがありません」。
高田氏の純粋な想いが唯一無二の蕎麦を作り出し、多くの人を魅了する。

『時香忘(じこぼう)』

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DATA
住所/長野県木曽郡木曽町新開芝原8990
TEL/0264-27-6428
営業/ 11:00~売り切れ次第終了、土・日・祝日10:30~売り切れ次第終了
休み/〈12~3月〉火・水・木曜〈4~11月〉火曜〈8月〉第1・4火曜 ※臨時休業日あり

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